今日は、あの「ダーティー・ハリー」で有名なクリント・イーストウッドの話をします。
私が、小学校5・6年生のころ「ローハイド」というアメリカの西部劇が輸入されて
テレビ朝日「10チャンネル」で放送されていたのをよーく憶えています。
まず、「ローレン、ローレン、ローレン」で始まる出だしの主題曲が印象的でした。
隊長のギル・フェーバーさん(エリック・フレミング(Eric Fleming 1966年9月28日逝去 享年41歳)が好きでしたが、
彼はその後、映画の撮影中に事故死してしまいます。(1966年の「High Jungle 」(MGM とCBS)の撮影中に事故死)
ローハイドの中で、隊長の補佐役「ロディ」として出演していたのが、若かりし日のクリント・イーストウッドです。
ローハイドは、夜10時から始まる番組だったのですが、小学生の私は、9時半ごろになると、どうしても
眠たくなって寝てしまい中々番組を見ることができなかったのを憶えています。
クリント・イーストウッドは、その頃から、女好きでクールな色男を演じていましたが、
その後、皆さんがよく知っているように大監督にまで上り詰める彼の映画人生を歩み始めることになります。
以下は、彼の経歴です。じっくり読んで味わってください。
クリント・イーストウッド・ジュニア(Clint Eastwood、本名:Clinton Eastwood, Jr.、1930年5月31日 - )は、
アメリカ合衆国カリフォルニア州、サンフランシスコ出身の映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、政治活動家。
公称身長193 cm(6フィート4インチ)。
俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演し、トップスターの地位を確立した。
監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー賞作品賞と監督賞を2度受賞するなど、
現代のハリウッドを代表する人物と目されている。
生い立ちと初出演後の不遇
クリント・イーストウッドは父クリント・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に生まれる。
スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。
家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、
幼い頃の生活は世界恐慌の煽りを受け苦しかった。
オークランド・テクニカル・ハイスクール卒業後、朝鮮戦争のさなかである1951年に陸軍に召集され入隊。
2年後の1953年に除隊後、サウス・カリフォルニアに移住。アルバイトの傍らロサンゼルス・シティ・カレッジの
演劇コースを専攻する。
1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』と
いったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごした。
TVシリーズ『ローハイド』、そして2人の師との出逢い
1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』で、ロディというカウボーイを演じる。
同作品は約7年間に亘り220話近く製作された人気シリーズとなり、イーストウッドの知名度と人気は世界的に高まった。
1964年にはセルジオ・レオーネ監督にイタリアに招かれ、マカロニ・ウェスタンの嚆矢でありかつそれを代表する作品となった
『荒野の用心棒』に出演。
その後も『ローハイド』の撮影の合間を縫って『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と
都合3作のレオーネ作品に出演した。
この3作品で名無しの男を演じたイーストウッドはレオーネを師と仰ぎ、レオーネの逝去まで交友を続けた。
これらの映画の人気により、イーストウッドの映画俳優としての評価はヨーロッパが先行し、アメリカに逆輸入された形となった。
『マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』でイーストウッドは型破りな
刑事ハリー・キャラハンを演じた。
これはシーゲル作品としてそれまでで最大のヒットとなり、イーストウッド本人もこの作品で
人気アクション・スターとしての地位を不動にした。
現在においてもイーストウッドの俳優としての代表作として真っ先に挙げられるのがこの作品である。
『ダーティハリー』シリーズは、この後4作品が製作されている。